洋画家神津港人と松山忠三
1920年(大正9年)12月22日午後2時、横浜出航より55日目、ロンドンのヴィクトリヤドックに、画業修行の父神津港人を出迎えてくれたのは、丸山晩霞同門の松山忠三であった。
その日から同氏が見付けてくれた下宿に居を定めたのを皮切りに、一年三ヶ月の英国留学中同氏のお世話になった。
松山忠三は、師丸山晩霞の再渡英を追い1911年(明治44年)渡英し、早くも1916年には、もっとも権威があった英国王立芸術院(ロイヤルアカデミー)展に出品を許されたのを皮切りに英国において水彩画家として認められ、英国水彩協会の会員となった。
1914年英国婦人と結婚し、四男を得た。第二次大戦後、妻の希望で英国に帰化したが、1954年死去。享年73歳であった。
第二次大戦の勃発後は活動を制限され、また四男の戦死に気落ちしたのか戦後は英国画壇での活躍は報じられていない。しかし終生、山、湖、川などの自然、街の風景などをみずみずしく描き続けた。
作品は、主にロンドンの漱石記念館、青森県立郷土館に収蔵されている。
1917年8月20日「ミスターコーヅへ 1920年」と為書きあり。
神津 琢自
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