2007年度梅野記念絵画館収蔵品展
2008.1.5(土)〜3.20(木)

主な展示作家より

 

●菅野圭介(すがの・けいすけ)1909-1963

 菅野圭介(圭哉、惠介)は1930年代後半から1960年代前半の30年間に活躍した画家である。
 清冽な魅力に満ちた色彩と不純物を一切とり去った半抽象の構成で、悠久とも云える芸術の調べを潮騒の如くかなでた浪漫の画家 Sugano これを才能と呼ばずして誰を呼ぼう。
 花々しきデビュー、三岸節子との恋、別居結婚、離婚、晩年の凋落、死、そして妻美玲子の後を追うような死等、彼の辿った人生そのものも、彼の絵に捧げられた栄光と忘却と共に、彼が天才なるが故に背負わされた十字架であったのかも知れない。

・静物 油彩、キャンバス 1941年 50×60


 

●伊藤久三郎(いとう・きゅうざぶろう)1906-1977

 伊藤久三郎は、抽象画家の中で前人未踏の画風を展開し、孤高の道を歩み続けた作家である。
 寡黙で温厚な人柄ゆえ、優れた画業をあげているにもかかわらず、美術史上では忘却されている。戦前の業績によりわずかにその名を留めているが、晩年の心象抽象作品こそ高く評価されるべきであろう。
 瞑想に瞑想を重ねたその晩年の作品は、ワンパターンのものは一つとなく、日本では全く類例のないオリジナリティと清冽な詩情と知的な輝きを放ち、日本のパウル・クレーとでもいうべき才華を放っている。
 今回は伊藤久三郎のデッサンを中心に展示した。

・ひきだし 油彩、キャンバス 1976年 130×97


 

●中村忠二(なかむら・ちゅうじ)1898-1975

 中村忠二は船乗り時代に詩集「願望」を出版し詩人として出発した。その後警視庁勤務の傍ら絵の制作にかかったが、定年後堰を切ったように、夥しい数の作品を制作した。
 特に60歳頃より草花、昆虫、小動物を愛し、対象同化の小宇宙に生き、独自のモノタイプを考案した。それは詩情とユーモア、哀しみに満ちている。
 晩年は極度につましい生活をしながら、5種の詩画集を自費出版し、無償で配布した。
 忠二作品の魅力は対象と同化する才能をもって心象詩人としてうたいあげる表現の自由さにある。

・Rain Evening in Tokyo(東京慕雨) モノタイプ、紙 1968年 103×67


  ●玉村方久斗(たまむら・ほくと) 1893-1951

玉村方久斗 日本画の天才の再発見
 2007年末から2008年初めにかけて、神奈川県立近代美術館(鎌倉)と京都国立近代美術館で、玉村方久斗の顕彰展が開催されている。
 2005年に当館では「玉村方久斗展」を開催したが、その際に幻の名作といわれる「雨月物語(巻子 全9巻)」を幸運にも展示することができた。この名作の所在が明かとなったため、玉村方久斗研究に携わる多くの美術館学芸員が当館に訪れ、今回の大顕彰展に結びついた。
 玉村方久斗は謎の多い作家とされていたが、今回の顕彰展では玉村方久斗の画業を次のように大別している。

第一期 1893〜1920 京都時代から再興美術院脱退まで
1918年 再興美術院で「雨月物語」樗牛賞
1919年 再興美術院脱退

第二期 1921〜1929 大正新興美術と「雨月物語絵巻」
1923年 関東大震災で「雨月物語」が焼失するが、直後から約1年という短時間に全9巻(1巻20m以上の長さ)を再び制作し完成させた
1924年 前衛三科運動に日本画家として唯一参加
1925年 「三科式の家」と呼ばれた自宅を建築
1927年 「劇場の三科」に自作前衛劇を上演
この時期には前衛美術雑誌の刊行も行った(一色活版 吉田信賢の支援)

第三期 1930〜1935 方久斗(ホクト)社時代
1930年 方久斗(ホクト)社を創設。特徴的なのは歴史、文学古典からの取材作品は一点もない(注文による制作は除く)ことで、自分たちを取り巻く環境から新しい日本画を生み出そうとした

第四期 1936〜1951 百九十一番居を経て晩年に
1935年 ホクト社解散、新興美術家協会結成
1943年 戦時下における「日本画資材統制協会」の190名から漏れ、これを受け自ら「191番目」の資材利用者とし、落款印章にも「百九十一番居」を使用
戦後 「戦災絵巻」の制作(所在不明)、新聞、雑誌の挿絵を手がける
1951年 「西鶴一代女」の制作途中、病死。享年58歳

・鶴図 絹本、着彩 134×50