再考 川島理一郎 1920年代を中心に  平園賢一


はじめに
 2002年1月から5月にかけて「川島理一郎」展が栃木県立美術館と足利市立美術館で開催されます。実に25年ぶりの本格的な回顧展となります。私の所蔵している「ポッツオリの岡」(8F 1925 油彩キャンバス/裏書き・出品番号シールあり)が、光栄にも請われて出品の日の目を見ることとなりました。現存する数少ない滞欧作の1つで、資料(新作画展覧会・東京美術倶楽部 1925)の存在でしか知られていなかった全盛期の作品です。杉村氏(栃木県美)も絶賛して下さり川島作品の中でも価値ある作品として高い評価

ポッツリオの岡
を受けることが出来ました。2度の災難で膨大な滞欧作を失った川島にとって、この新作画展覧会が事実上の日本デビューとなった本格的な個展(油彩58点、その他29点)で、「一段と自分の信ずるところを決定的にやってみた。この結果は巴里と伊太利風景とを漸くして自分の作として発表できたかと思えた。そしてこれらの作品は、一般の人たちにも認められたようだった」と語っているように、川島自身にとっても価値ある展覧会であったと思われます。この作品は58点の油彩のうちナポリ風景6点の中の1点で、作品の舞台となったポッツオリはナポリ湾の西に位置する古代ローマ最大の商港として栄えた都市です。この1枚の風景画から1920年代の日本を代表するコスモポリタン川島理一郎画伯のさらなる顕彰と、日本洋画史の影の部分に光が当てられんことを期待しています。

蒐集の経緯と作品について
 川島理一郎を意識しだしたのは平成3年の頃です。妻と結婚する前に彼女の自宅に架けてあった二重作龍夫の堂々とした富士と詩情豊かなベニス風景を見て感動し、二重作について調べていったところ、彼の心の恩師ともいえたのが川島であることを知ったのです。著作は図録に目を通しているうちに代表作といえる滞欧作が2度の災難(1923年関東大震災で展覧会用滞欧作200点以上、1931年貨物船の沈没で数十点)で大量に喪失されたこと、日本の美大を出ていないことが評価を不当にしている遠因であることが分かってきました。どうしても全盛期である滞欧作を手に入れ、川島の画業の神髄の一端でもこの目で確かめてみたいと思うようになりました。それから5年の歳月が経ち、H堂の図録に登場したのが滞欧作「ポッツオリの岡」でした。折しも34歳の誕生日であり、千載一遇のチャンスと思い清水の舞台から飛び降りました。届いた作品は保存もよく元額で、文句のつけようがない名品でした。川島の著作の真意がこの絵一枚からよく分かるのです。私はこの作品と著作を通して、川島画伯と時空を超え会話をすることが出来ました。
 川島は無類のデッサン家であり理論家です。キャンバスに向かうまでに何百というデッサンを繰り返し、完璧なまでの構図を整えます。それでいてできあがった作品は軽妙で軽快、まさに心憎い仕事をするが故に、多くの識者から尊敬されていました。川島本人も「できあがった構図からは枝一本すら動かせない」と言っています。当代随一の色彩画家と言わしめたその色使い、特に川島自身がこだわった「緑」は素晴らしい。著作「緑の時代」からも分かるように、緑は青年の色であり、可能性を秘めた特別の色であったことが窺われます。この作品にも多くの緑が使われています。川島作品のキーカラーはまさしく緑です。“川島の緑”に注意していると、作者の声が聞こえてくるかもしれません。

まとめ
 川島は足利市の文芸に秀でた名門の家に生まれ、父の仕事を手伝うため19歳(1905年)で渡米したのを皮切りに、1909年にはニューヨークアカデミーオブデザインを特待生で学び、1911年には渡仏し、アカデミージュリアンで学んでいます。1913年にはサロン・ドートンヌに日本人として初めて入選し、評論家や文豪などの知識人たちの称賛を受けるまでになっています。それから川島の活躍はめざましく、マチス、ピカソ、ブラック、レジェ、フリエスなどと直接交友を持ち、芸術研究の目的のため世界を飛び回ること自体、1920年代多くの滞欧日本人画家がいる中にあっても、川島以上に1920年代の醍醐味を味わった画家はいないと思われます。日本洋画壇が、この破格の国際感覚の持ち主から受けた恩恵を再評価し、作品ともども顕彰すべき時期が来ているように考えています。
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