今年は「壬午」、すなわち「壬(みずのえ)」と「午」の組合せ。「壬」は、字の真中の一が長くなっている。前年に種付けされた胎児なら今年は大きくなってお腹がふくらんでくる姿を表わしており、いわゆる「妊」娠である。また壬には課題に取組むという意味があって、イベんをつけて任(任務とか責任)という字になる。
また「午」の意味は、上の部分のノーは地表を表わしており、下の十の一は陽気で、lは陰気が下から突き上げて地表に出ようとする象形文字といわれる。
さて、昨年末に胎児として腹の中で産声を出そうとした(腹の中だからまだ声は出ないが)友の会研究グループの発表活動は、今年、新誕生「我談画弾」紙上で大いにはばたくという年回りになること間違いない。そのことに任ずる精鋭がどんどんと集まるはずだ。
前置きが長くなってしまったが、今回は池田勇八(1886〜1963)の馬のブロンズレリーフについての細やかな話を述べよう。
池田勇八について調べようしても、身の回りに資料・文献が殆ど見当らず苦労このうえない。研究・調査不足といわれれば返す言葉もないが、それにしても物故彫刻家の扱いは、年数を経るにしたがって、洋画家より数段良くないような気がする。
権威ある1990年頃発行の近代日本美術事典にも、勇八の記述は無くなっている。当然採録されるべき近代日本の彫刻家だと思うのだが、止むを得ない。朝日新聞社(昭和42年刊)の『原色明治百年美術館』より、池田勇八の略歴を引用する。
勇八は明治19年、香川県に生まれる。40年東京美術学校彫刻家選科を卒業。42年第3回文展で『馬』が初入選し、以来連年動物をテーマにした作品を発表している。
大正5年第10回文展『川べにて』で特選、北村西望、建畠大夢、堀進二、小倉右一郎も同時特選。6年11回展に『目かくし』で特選、長谷川栄作らが同時特選。次の7年12回展に『麓そだち』で特選、同時特選者は北村正信、吉田三郎、斉藤素巌ら(斉藤素巌はこの『彫刻を拾う(その1〉』で取り上げた)。
10、11、12回と連続特選を得たことなどにより、大正9年に帝展審査員となり、官展の重鎮として活躍した。その後、昭和10年帝展改組により組織された第三部会に参加したが、のち日展に復帰した。しかし、晩年は公設展への発表をひかえ、たまに個展を開催した。作品は動物彫塑が多く、とくに馬の作品が有名であった。
森口多里の『美術八十年史』(昭和29年刊)にも、勇八に関する記述はたしかにあった。官展の彫刻家として、「池田勇八は馬の生態の写実に専念した」とある。昭和38年、77歳で死去。
古美術店の主人とか、近年の新業態のリサイクルショップの店長とよく話をするのだが、作家の詳・不詳に関係なく芸術性の香りのする作品は「足が早い」と、彼らはよく言う。「足が早い」とは商売上の業界用語だが、何となく理解できないわけではない。
写真の池田勇八の『親子』(私が勝手に命名した)は、「良いものは足が早い」が主人口癖の業者相手主体の古美術店で見つけたもの。主人が言うには、「今さっき市で手に入れたばかりだ」とか。「もう少し店に飾っておきたいのに・・・」といった顔つきを承知のうえで、猛烈アタック。主人はこちらの気迫に押されたのか、その場で交渉成立。持ち重みのする共箱付きのレリーフを早速我が家に持ち帰った。それは昨年の12月のことである。
作品の壁掛ブロンズレリーフは、裏面に○○贈呈という鋳込文字がある。したがって、何十枚か制作されたものと思われる。一品制作のミュージアムピースではなかろう。
ところで、正月休みに土方定一の『日本の近代美術』(岩波新書)を読んでいたら、こんな件があった。「作家の多くが満潮期と退潮期をもっていて、・・・」。いわゆる美術評論家的にいえば、勇八の満潮期は大正中期の文展3回連続特選の頃であろうし、退潮期は第2次大戦後の晩年の日展出品を控えていた時期になる。しかし、私はそうばかりとは思わない。
たまたま『日展史』で昭和28年第9回展出品の『スタート』を写真で見ることができたが、その作品の競走馬の雄姿はなかなかの出来栄えであると確信する。
勇八の『親子』は制作年不詳だが、いつまでも大切に手元に留めて置きたい作品だ。
寄稿者 堀田晃久 愛知県