気まぐれ美術史(誌)ノート-2

 まずは同人の皆様・会員の皆様、誠に申し訳ございません。原稿の締切をすっかり忘れていたのです。日頃思いついたこと、気になることなどを、その都度記録しておけばいいのにと思うのですが、ドーモアカン。
 『気まぐれ美術…』を『グータラ…ド忘れ美術…』と変えなければいけませんね。
 サテ、『北御牧アート便り・15号』が届きました。
 イイ写真が出ていますね。「明神館から見た北御牧村」とありますが、どこにでもありそうでいてなかなか見ることのできない貴重な風景ではないでしょうか。曲がりくねった道と地形のままに作られた田畑は「残したい日本」なのであります。
 先日、木村夫妻のコレクション展を見た帰りにタクシーを止めて暫く見下ろした風景、坂道の曲がり角、眼下に千曲川と田中の町並みが手に取るように見えるところ、「木の間風景」とでもいうのでしょうか、この眺めも北御牧村の財産であります。
 「木の間風景」がでたところで萬鉄五郎の作品を思い出して下さい。彼の展覧会図録を見るといろいろな「木の間風景」が載っています。
 それらは主に彼の郷里である岩手県東和町土沢の風景と考えられており、日本的フォービズムの土沢風景から萬的キュービズムの土沢風景へとの変遷が見て取れ、これは彼の画業のエポックなのです…そしてそれは日本洋画史の上でも重要視されている作品群なのです。
 大正3年の秋、籍まで移した東京の小石川区宮下町を生活と制作上の理由で引き払い、郷里土沢に引きこもった彼の心中はいかばかりでありましょうか、「かなきり声の風景」という不思議なタイトルの作品がありますが、まるで彼の心の中のイライラがそのまま絵になったかの様であります。
 さて彼の「木の間風景」をいろいろ見るうちに私なりに気づいたことがあるのです。「木の間風景」の源は東京小石川区付近の風景なのだと。
 つまり1909年(明治42年)春結婚、現在の文京区千石3丁目に新居を構え、1914年(大正3年)秋、生活と制作上の行き詰まりにより家族を伴い郷里へ帰るまでの間の作品こそ「木の間風景」の原型があるように思えるのです。
 丘の上から家並みを見下ろす構図がいくつもありますし、坂の上から下を見る、あるいは坂下から上を見る図があり、坂の途中を横切る小路を左右から描いてみたり、なかなか萬はコダワリを見せているのです。
 1913年(大正2年)の頃の作品に「風景・丁字路」という作品があります。塀の上から松の枝が大きく伸びていて、その下には一本のガス灯が立っています。右側の坂の下から麦藁帽の男が荷車を引いて上がってきます。さらに同じ場所を反対側からも描いていますし、木版画にもしているのです。よほど気に入っていたところなのでしょう。
 どこにあるのか丁字路、私はそこへ行ってみたい、萬と同じ視線に立ってみたい。彼の住まいのちかくであることは間違いないのです。
 まずは地図であたりをつけます。大塚と巣鴨の間、千石3丁目と4丁目、そして豊島区の南大塚1丁目近辺の住宅図を手に入れ、萬鉄五郎の住まいを中心に丁字路を探します。
 90年も前のことですが、比較的宅地化が早かった為に居住者の為の道(路地というのか)や急な坂道(今をクルマ社会とするならばこんな坂イヤナ坂雪降りゃ最悪)が残っております。
 小石川区宮下町18(現・千石3丁目28番)が萬邸の在ったところ、いまでは20世帯はありそうで、ココントコロガソウデスと指さす事のできないもどかしさヨ。
 さて萬邸から西南の方角へ100メートルほどのところに「東福寺」というこの界隈では大きな墓域を持つ寺院が在るのです。西向きに山門があり石段もあるようです。そこが丁字路になっています。この寺がアヤシイ、萬の宗教に対しての心構えがどんなだったかは知らないが、21歳の時に禅宗の布教活動で渡米するなどいささか特異だったと思いたい。ならば自宅すぐに見える東福寺の存在が気にならないワケがない。歩いて3分もかからない距離だ。2歳になった長女フミ(のち登美と改名、通称トミ子)の手を引いての散歩コースと考えてもよさそうだ。以上の事を踏まえて某月某日実地調査と相成ったのであります。
 その結果、「風景・丁字路」は東福寺門前と断定いたします。ただ門前の坂道の勾配に物足りなさを感じるのではありますが。
 さらに寺の裏側に廻ってみました。左側だとゆるい上り坂、右回りだとかなりの急勾配であります。たぶんそれぞれの坂も萬作品になっていると思われます。
 なんとなくあっけない幕切れでありました。次回は「岸田劉生・代々木の坂道」あるいは「槐多坂」についてレポートしてみましょう。

寄稿者 後藤洋明 東京都