サラリーマン蒐集雑記(2)小出三郎  鈴木英二

 サラリーマン生活の傍ら、絵画を集め始めて、かれこれ15年近くなる。「安給サラリーマンで、家族の理解が得られないのに、作品を集めるのはなぜなのだろうか。それは、心が美を欲しているからだ。」などと自問自答しながら…。
小出三郎(1908−1967)
1908年 大阪市東区内久宝寺町に、小出一也・園香の三男に生る。洋画家故小出卓二(行動美術協会創設会員)は次兄。
1926年 大阪府立天王寺中学校卒。大阪美術学校に一時通う。程なく大阪信濃橋洋画研究所に入り、小出楢重、国枝金三、鍋井克之、黒田重太郎に指導を受く。
1932年  第2回独立展、入選(初出品)
1940年  第10回独立展、「艪とたらひ」で独立協会賞
1941年  第11回展独立展会友推薦、同年より無鑑査出品の資格得る
1947年  第15回展独立展会員となる
1954年  独立会員春季展に「赤いドレス」出品
1956年  田中佐一郎、中間冊夫、菊池精二、中村善種らと「いちい会」結成。以後、1964年まで、独立展、いちい会展に毎年出品
1964年 11月自宅で倒れる。阪大病院入院、退院後自宅療養
1967年 9月再発、死去
1968年 3月小出三郎遺作集刊行、京都独立展に遺作30点陳列、4月第5回関西独立展に遺作40点特別陳列
1978年 2月28日から3月12日、東京セントラルアネックスに於いて、小出三郎遺作展開催

 天王寺中学校(現天王寺高校)同窓会の桃陰会館には、信濃橋洋画研究所で指導していた鍋井克之、新燈社美術研究所主宰の青木大乗(日本画)、次兄の小出卓二、2年先輩で独立会員の島村三七雄、等々の卒業生の作品と共に、小出三郎作品「水着の女」「けしの花」2点が所蔵されている。
 遺作集年譜によると、1954年46歳 第22回独立展に「水着の女」「六甲」出品。独立会員春季展に「赤いドレス」出品 との記述があり、桃陰会館所蔵の「水着の女」は独立展出品作品で、藝林月報第63号掲載「赤いドレス」と同時期の作品の可能性が高い。つばのやや広い日除け帽子を頭に載せた水着の女性の立姿で、体の量感の表現を強く意識した作品と思われる。「けしの花」は白布の敷かれた机上に、2つの筒花瓶のけしの花、美術雑誌(?)などが配された静物画で、整った背景の表現などを見ると、1935〜40年ごろの作品だろうか。
 信濃橋洋画研究所は、大正13年4月3日、鍋井克之と小出楢重が、国枝金三、黒田重太郎を誘って開設した。当初は美術家のクラブのようなものをつくり、経営策として研究所をやってゆく構想だったようだが、研究所が大発展し昭和19年まで続いた。当時美術学校の洋画科がなかった関西で、その後活躍する作家を数多く輩出した功績は大きい。
 信濃橋洋画研究所で学んだ後、第2回独立展へ初出品初入選を果たす。
 独立美術協会では、飯田操朗、今西中通と同年生まれ。飯田操朗は姫路中学を卒業後、信濃橋洋画研究所に通った時期があり、小出三郎と何らかの交流があったのではなかろうか。飯田はその後上京して太平洋画会研究所、本郷洋画研究所に学び、第1回独立展で初入選、3回展では海南賞、5回展では独立賞と、独立展での活躍は目覚しかった。1936年6回展で今西中通らとともに独立展会友に推薦されたのだが、同年10月29歳の若さで他界してしまった。今西中通も第1回展より出品、5回展ではD賞を受賞し、6回展独立展会友推薦、戦後1946年準会員推薦、1947年15回展独立展会員になるも同年4月死去。改めて言うまでもないが、今西中通は梅野館長が尽力されて、発掘顕彰し再評価された作家である。
 独立展で、同年代で忘れてならないのが菅野圭介である。菅野は1909年生まれで、飯田、今西、小出らとは1歳違いだが、独立展には1936年第6回展から出品(以後1961年まで出品)、8回展では協会賞、10回展独立展会友推薦、11回展で沁¥ワ、12回展で岡田賞、13回展独立展会員と華々しい活躍ぶりである。その後の数々のエピソードは周知の通り。今年「菅野圭介の会」が発足し、再評価・顕彰の機運が高まっている。
 今西、菅野は、梅野記念絵画館の主要収蔵作家であり、再評価・顕彰のシンボル的存在である。
 私が小出作品に出会ったのは、梅野記念絵画館が開館した1998年、5月に絵画館友の会に入会し、藝林月報バックナンバーで小出三郎作「赤いドレス」を知った6ケ月後の1998年11月であった。