ここに挙げた四谷十三雄の風景は、彼の感覚が存在する作品の一つである。このペンとコンテによって描かれた風景は何とも不思議だが彼は実際の風景を見て描いたのだろうか。大木は現実の木と異なり、枝の底のところが跳ね上がって見える。幹がバランスを失っているものもあれば、首を傾げたような表情を覗かせているものもある。道は遠方へと誘うが、これ以上行っても先へとつながる期待感はない。コンテによる光の表現をみるのも初めてだが、画面全体にはけだるいうねりのような感覚が支配している。恐らくこれは画家の内面からでた創造の世界であり、もしかすると目が覚めたときに見た夢の中での光景なのかもしれない。でもずっと見ているとすべてが透明な光に包まれた真夏の激しい太陽の下に立つようなイメージが現れ、私自身、現実との見境がなくなりそうになる。この夢のような光景は平凡な日常生活の中にいる自分に生きた存在としてしばし頭の中によみがえってくる。
こうした素描における彼独自の表現方法の革新はさらに続く。他の自画像では線の集合によって顔が形づけられ、消しゴムで表情がつけられているものがある。横顔を描いたもので顔の輪郭の背景の一部が濃く塗りつぶされ、強調された線が施されているものもある。言葉だけで表現するのは難しいが、横顔の輪郭のあたりに鉛筆による針金のような「はねた線」を施すことにより、人物の内面を強めている。大正時代の画家、村山槐多は風景や人物のコンテによるデッサンに優れたものが多いが、表現の独自性を一つ挙げるとすれば対象に対して施された背景の水平な線だろうか。 四谷十三雄は中学を卒業して養成工として富士電気川崎工場に就職するが、当時は今より会社全体であらゆるスポーツ・文化サ−クルを振興していた。生きるということを真剣に考えようとする雰囲気が残る、そんな時代だった。仕事の傍ら横浜造形芸術研究所に通うことにするが、そこで星野鐵之氏らと会っている。こうした画学校は芸大を受ける多くの若者たちが通っていた。ここで絵を学ぶうちに、自分の才能を確信していく様子が当時の手紙に書かれている。
オバサマ、三千円という大金を送って下さり、うれしくて、さっそく絵の具を買いに行きました。心から感謝しております。私が絵画を始めた頃は十九才の後期でした。その時は画材を買うような小使いがないので文房具屋で月払いで買ったことを覚えています。その時はひまつぶしで画くのだという幸せな甘い生活を夢にしていたのですが、月日がたつにしたがい、自分の中に一生をかけても追求しがいのあるものが欲しくなりました。
それが絵なのです。…横浜にある造形研究所で一年ばかり基礎的なものを勉強したのです。そこには芸大へゆく受験生が大勢いてそれぞれが真剣に勉強していくのを見、絵というのは学問に左右されるものではなく、人間が左右する事を強く知った。絵画的野心を持ったのはこの頃でした。絵を画くということを通じて自分が成長してゆくことがはっきりわかる時があります。その時は恐ろしいけれども自己を知る事により精神的に成長すると思う。しかしあまり自分を見つめすぎると自分がいやになることさえあります。
だけどしょうがない。自分という人間を知るという事から物事が発展してゆくからです。絵画の道は小説家、音楽家達と同じように険しい苦難の連続であると思う。それだけに途中でくじける人が多いという事です。
しかし私はやり通すという信念は変わっていない。私が世に出るか、自己の絵を発見できるかできないかは未知の世界であります。そのカギをとくのは努力するほかないと思います。オバサマ、私はうれしい。 手紙より ー昭和36年頃ー
*「悲運 早世のアーティスト達」「新規寄贈寄託作品展」にて当館所蔵四谷作品を展示中です。画集
*激しいものを画きたい−四谷十三雄 平塚市美術館 2003.1.22〜5月下旬 平塚市美術館所蔵の四谷作品93点中、約40点を展示
|