梅野満雄 1879-1953
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青木の名は、明治三十六年の『黄泉比良坂』などの神話画稿、翌年の『海の幸』によって一躍世に知られたが、生来世俗に不向きな青木は、ほどなく困窮生活に陥り、同郷の親友梅野満雄の支援はあったものの好転せず、父の死で久留米に帰郷後はさらに「家」の負担がのしかかっていった。極貧状態のなか一家は離散同様となり、青木は放浪生活に。貧苦と孤独のまま四十四年三月、福岡市須崎の松浦病院で息を引き取った。以下は死のひと月前、梅野満雄に宛てた書簡(絶筆=梅野記念絵画館蔵)の末尾である。
――驚くではないか。不運なものは何処迄も不運に出来て居て、まだ人生の半途にも達せぬのに、かう呪はれては仕方がない。誰も見舞に来てくれるものもない。そして今は鶏卵さへ買ふ金もない有様で、冷かな室に日に日に味気なく送って居る。今暫くだ、桃の花さく頃は僕の健康には最も適当の気候で、君!僕は衰残の躯を提げて都門に入るつもりだ。そして幾何も無い剰生の限りを聊か意義あらしめやうと力めて居るのだ。悔んでも仕様がない……肌着も汗古くなった。一つは破れた。けれども買揃へる金も今はない。貧と病は同盟してゐる。君百円許の工夫はあるまいかね、作画の注文でもよい。君の学校あたりではないか。
自らを画界のナポレオンと称したという天才画家のあまりにも悲惨な最期である。わずか二十八歳。乞食同然に逝った青木の無念はしかし、一人梅野によって受け継がれた。
青木の死後、梅野、坂本繁二郎、蒲原有明、正宗得三郎等友人グループによって、遺作展覧会が開催され画集も刊行されたが、遺族とのトラブルが発生し、遺作はすべて遺族のものとなる。が、宿命というべきか、それから十二年後、青木の遺族は窮状から、梅野に青木遺作品の買取りを懇願する。青木の作品の散逸を恐れた梅野は、周囲の非難排斥を顧みず田畑を売り払ってこれに応じた。以来、梅野は秘かに「青木繁美術館」建設の夢を抱き、更なる遺作遺品の蒐集に執念を燃やした。梅野の生きる喜びであった。
昭和十四年久留米市の明善校が火災に遭った。梅野・青木の母校である。青木の五十号の肖像画が消失した。これが梅野に大きな衝撃を与えた。
同年と翌年にわたって東京と大阪で、梅野所蔵の遺作品による「青木繁遺作展」が開催され、青木芸術の評価は一層高まった。が、梅野はこの展覧会を遺作品の売立展とした。そのためこれを機に青木作品の多くが梅野のもとを離れることとなる。展覧会を売立展としたことの意図として梅野は、一人専有することは不慮の際全滅の懼れがあること、また鑑賞の機会を少なくすることとなり為に青木の真価が十分に評価されていないことの二点を挙げている。今日顧みると青木芸術の保存にとってこれは歴史的決断であった。しかし、生涯をかけ亡友青木の遺作を購入し、青木の個人美術館を一生の事業となさんとしてきた梅野にとっては、生きる目標を捨てるに等しい挫折であり、苦悩に満ちた決断であった。(佐藤修「二つの無念」より抜粋)
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青木繁 1882-1911
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房州絵入り書簡 1904年 梅野満雄宛 青木繁差出
千葉県布良において「海の幸」を制作中である内容を活き活きと梅野に伝える内容。(左は全4枚のうちの1枚目)
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海の幸 油彩、キャンバス 1904年 重要文化財 財団法人石橋美術館蔵 ※本展では原寸大パネルの展示です。
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わだつみのいろこの宮 1907年
油彩、キャンバス 重要文化財
財団法人石橋美術館蔵
※本展では原寸大パネルの展示です。
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1905年青木繁には、愛人福田たねの間に幸彦(のちの福田蘭堂)が生まれるが、青木には長男としての義務を果たさねばならない現実が迫っていた。自信作「わだつみのいろこの宮」には酷評が与えられ、家族とも衝突。放浪生活が始まる。
この頃、梅野満雄は郷里で教職に就き、歌人大隈言道を発見しその研究に没頭し始めていた。
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青木繁絶筆書簡 1911年 梅野満雄宛
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