コレクション

青木繁1882 - 1911

今でこそ明治期を代表する天才画家として知られる青木繁ですが、存命中は正当な評価を得られず、失意のまま結核のため29歳で早世しました。

青木と同郷であり久留米中学明善校で同窓だった梅野満雄(梅野隆の父)は、青木の存命中もその生活を支え、没後も自身の相続する田畑を売却して青木の遺作を買い取り、散逸を防ぎました。その後、満雄は青木の美術館設立をあきらめ、所蔵する主要な青木作品を売却しますが、梅野隆が中学1年の頃までは、国の重要文化財に指定されている「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」は梅野家にありました。満雄は正月に必ず床の間に「わだつみのいろこの宮」を飾り、梅野隆は「薄暗い客間がまるで海底の眺めの如く鮮やかに見えた」と後年記しています。

当館が所蔵している「眼」は、その時売却されずに残されたもので、青木の素描の中でも一級品といえるものです。

明治15(1882)年 久留米市生まれ
明治28(1895)年 久留米中学明善校に入学
図画教師の森三美に洋画を習い始める
明治32(1899)年 久留米中学明善校を退学し、上京
不同舎に入所
明治33(1900)年 東京美術学校西洋画科選科に入学
明治35(1902)年 11月から12月にかけて、坂本繁二郎、丸野豊と妙義山から信州小諸までスケッチ旅行
明治36(1903)年 第8回白馬会展で白馬賞を受賞
明治37(1904)年 東京美術学校を卒業
坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと房州布良に滞在、「海の幸」を制作
第9回白馬会展に「海の幸」を出品
明治40(1907)年 東京府勧業博覧会に「わだつみのいろこの宮」を出品するが、三等賞末席となる
第1回文展に出品するも落選
明治41(1908)年 家族と衝突し、以後、九州各地を放浪
明治42(1909)年 第3回文展に出品するも落選
明治44(1911)年 結核のため、福岡市の松浦病院で死去 享年29歳
風景/今西中通

今西中通1908 - 1947

今西中通は、戦前の独立美術協会で活躍した画家ですが、結核のため昭和22(1947)年に39歳で早世しました。17年ほどの画業の中で、フォービスムからキュービスムへ移り、最後はセザンヌ風の写実に帰っていきました。今西の作品は、どのような表現様式で描かれても、そして片々たる素描にも、芸術に立ち向かう気概のようなものを感じます。

没後、長く忘れられていましたが、昭和36(1961)年に神奈川県立近代美術館で「忘れられた三人の画家 飯田操朗、今西中通、森有材展」が開催され、昭和42(1967)年に京都国立近代美術館で「異色の近代画家たち展」に取り上げられるなど、徐々に注目を浴びるようになりました。

梅野隆は、昭和39(1964)年頃に東京本郷の骨董店で一枚の今西作品と出合ったのが契機となり、水彩素描を合わせて百数十点を収集しています。

明治41(1908)年 高知県生まれ
昭和 3(1928)年 上京し、川端画学校に学ぶが、その後、1930年協会研究所に移る
昭和 5(1930)年 第5回1930年協会展に出品
昭和 6(1931)年 第1回独立展に出品(以後、15回まで7・8・13回を除き継続出品)
昭和10(1935)年 第5回独立展でD賞を受賞
昭和11(1936)年 第6回独立展で会友に推挙
昭和15(1940)年 肺結核を発症し、蓼科高原で療養
昭和16(1941)年 香川県坂出市に転居
昭和21(1946)年 福岡市に転居 この頃、肺結核の病状が悪化
昭和22(1947)年 第15回独立展で会員となる 肺結核のため死去 享年39歳

菅野圭介1909 - 1963

菅野圭介は、本名を奎介といい、生涯を通じて圭介、圭哉、恵介と名を改めています。

渡欧してフランドランに師事し、帰国後に独立展に出品された作品は、小島善三郎や中川紀元らに絶賛され、画壇に彗星のように登場しました。デッサンを取らず、色面と色面の間に生まれる線を尊重し、混色を避けた美しい半抽象の風景は、大きな反響を浴び、三岸節子も影響を受けています。

晩年は病気もあって人気が凋落し、徐々に忘れられていきましたが、平成2(1990)年に、美術研究藝林で「浪漫の画家 菅野圭介展」を開催したのが契機となり、平成7(1995)年に平塚市美術館、平成17(2005)年に東御市梅野記念絵画館、平成22(2010)年に横須賀市美術館、一宮市三岸節子記念美術館、ミウラート・ヴィレッジ(三浦美術館)、東御市梅野記念絵画館を巡回した展覧会が開催され、再評価されるようになりました。

明治42(1909)年 東京府牛込区(現在の新宿区矢来町)生まれ
大正15(1926)年 東京高等学校文科丙類に入学
在学中に美術部に入り油彩画を描き始める
昭和 6(1931)年 京都帝国大学文学部選科に入学し、英語英文学を選考
昭和 8(1933)年 京都帝国大学を除籍となる
昭和10(1935)年 渡欧し、ロシア、ドイツ、フランスを巡る
昭和11(1936)年 南仏グルノーブル近郊のエクス・レ・バンにあるフランドランのアトリエで生活を共にして師事する
秋に帰国
昭和12(1937)年 第7回独立展に出品し、児島善三郎の隣に展示される
以後、独立展に出品
昭和13(1938)年 第8回独立展で独立美術協会賞を受賞
昭和16(1941)年 第11回独立展でI氏賞を受賞
昭和17(1942)年 第12回独立展で岡田賞を受賞
昭和18(1943)年 第13回独立展で会員に推挙
昭和23(1948)年 三岸節子と再婚し、マスコミに別居結婚と報道される
昭和27(1952)年 ブラジルに渡り、サンパウロ近代美術館で個展
リスボンを経てマドリッド、パリ、チューリッヒ、ミュンヘン、ウィーン、ローマを旅行し帰国
昭和28(1953)年 三岸節子との結婚を解消
昭和29(1954)年 須藤美玲子と結婚
昭和38(1963)年 食道癌のため死去 享年53歳

伊藤久三郎1906 - 1977

伊藤久三郎は、戦前の二科会内に設立された前衛的な傾向の作家集団である九室会のメンバーです。当時、九室会には吉原治良、山口長男、斎藤義重といった日本の前衛絵画を代表する作家たちが揃い、伊藤久三郎は彼等と同等かそれ以上の評価を得ていました。しかし戦局の悪化を受け京都に帰ると、戦後は京都を出ることはなく中央画壇から忘れられてしまいました。

伊藤の画業は、大きく戦前のシュールレアリスム(超現実主義)的作風と、戦後の抽象的な作風に分けられます。特に晩年の10年間に到達した画境は、枕元にスケッチブックを置いておき、朝目覚めた時に夢のイメージを描きとめ、そのイメージを時間をかけて作品に仕上げていくという手法により制作するもので、誰にも真似のできない独創的なものです。

京都に生まれ、最初に日本画を学んだこの作家は、シュールレアリスムにしろ抽象にしろ、西洋の物真似ではない日本人独自の絵画表現となっています。

明治39(1906)年 京都市生まれ
大正12(1923)年 京都市立美術工芸学校を卒業
昭和 3(1928)年 京都市立絵画専門学校を卒業し、上京
昭和 4(1929)年 第16回二科展に入選(以後、二科展に継続出品)
昭和 8(1933)年 第20回二科展で特待賞を受賞
昭和12(1937)年 新美術家協会会員となり、第9回新美術家協会展に出品(以後、第10・11・13回展に出品)
昭和13(1938)年 九室会の結成に参加
昭和16(1941)年 二科会会員となる
昭和19(1944)年 京都へ帰る
昭和20(1945)年 行動美術協会の結成に参加(以後、継続して出品)
昭和21(1946)年 第1回行動美術展に出品、会員となる(以後、行動美術展に出品)
昭和28(1953)年 抽象と幻想展(東京国立近代美術館)に出品
昭和32(1957)年 第4回サンパウロ・ビエンナーレに出品
昭和40(1965)年 成安女子短期大学教授
昭和43(1968)年 成安女子短期大学意匠科部長
昭和46(1971)年 第23回京展審査員(以後毎年)
昭和51(1976)年 京都府美術工芸功労者
昭和52(1977)年 脳腫瘍のため死去 享年71歳
昭和62(1987)年 「前衛の先駆者伊藤久三郎展」(美術研究藝林)を開催
平成 7(1995)年 「伊藤久三郎―透明なる抒情と幻想展」(O美術館)を開催
平成29(2017)年 「没後40年伊藤久三郎展―幻想と詩情」(横須賀美術館)を開催

荘司貴和子1939 - 1974

『芸術新潮』1980年8月号の「良い画家が推す良い画家」という特集の中で、加山又造が荘司貴和子を推薦しています。

荘司貴和子は、東京藝術大学日本画科を卒業し、新制作協会と創画会を舞台にスケールの大きな透明感のある美しい抽象画を発表していましたが、39歳の若さで早世しました。日本画家の荘司福は義母に当たります。

没後の遺作展を見ており、冒頭の加山又造の推薦文を読んでいた梅野隆は、この夭折した才能溢れる日本画家の作品との出会いを熱望していましたが、とうとう平成21(2009)年にあるオークションに荘司貴和子の大作が出品されていることを知り落札します。出会ってから30年近い歳月が流れていました。

これが縁となって平成25(2013)年に当館で遺作展を開催し、この画家の画業の全貌を紹介することができ、翌年にご遺族から全出展作品を寄贈いただきました。

昭和14(1939)年 神戸市生まれ
昭和18(1943)年 父の転勤に伴い、長崎市に転居
昭和20(1945)年 島原半島に疎開したため、原爆を逃れる
昭和31(1956)年 父の転勤に伴い、東京都立駒場高校芸術科に転入
昭和33(1958)年 同校を卒業、しばらく日本美術院の須田洪中の指導を受ける
昭和34(1959)年 東京藝術大学日本画科に入学
昭和38(1963)年 同校を卒業、駒場高校と私立駒込学園高校の非常勤講師を務める
昭和39(1964)年 新制作春季展に出品(以後、昭和49年まで出品)
昭和40(1965)年 新制作展に出品(以後、昭和46年を除き昭和48年まで出品)
昭和48(1973)年 春季展賞を受賞(昭和49年も受賞)
昭和49(1974)年 第1回創画展に出品(昭和53年まで出品)
昭和50(1975)年 春季創画展に出品(昭和53年まで出品)春季展賞を受賞(昭和53年まで受賞)
昭和54(1979)年 腸癌のため死去 享年39歳
昭和55(1980)年 東京藝大同期生により遺作展を開催(東京銀座彩鳳堂)
平成25(2013)年 「時の審判の場へ 祈り 荘司貴和子展」を開催(東御市梅野記念絵画館)
平成26(2014)年 出展した作品全点が東御市に寄贈され、梅野記念絵画館に収蔵される
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